ALPINE History
アルピーヌ・ヒストリー |
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北フランスにあるデュエップの地で、アルピーヌ社は、 株式の大半をルノーが持つ子会社だが、
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アルピーヌ社を創設したジャン・レデレ氏はデュエップ生まれ。 ルノーディーラーを経営する裕福な家庭で育った。 そして地元の経済大学を優秀な成績で卒業する。 父親も車に情熱を注いだ人で、レースのメカニックをしていたほどであった。 その情熱を父親から受け継いだジャンもまた、 レデレ氏が父親のディーラーを受け継いだのは、大学を卒業してすぐ、1940年代半ば。戦争の痛手の大きかったフランスでは、トラックなどを売ることが主な仕事になっていた時代だった。ドライエやブガッティ、タルボ等の戦前に君臨した高級車やスポーツカーは、徐々に姿を消していった。かわりに出てきたのが2CVや4CV等の小さな大衆車たちだ。このフランスの蚤と言われた4CV(注1)がレデレ氏の運命を変える車であった。彼のルノー・ディーラーでたくさんの4CVを売る傍ら、レース好きの彼は、いろいろなレースやラリーに自ら出場した。4CVは丈夫で、軽量なため操縦性も良く、速かったので競技には最高の車だった。当時はレギュレーションがゆるやかだったので、レデレ氏は改良(注2)を加え、各競技で好成績をあげて行った。 50年初頭ラリーで知り合った若きカロッツェリア、ミケロッテイ氏がレデレ氏の夢を現実のものにした。4CVをベースにアルミ製のクーペをデザインした。最後はアルマーノが仕上げたそうだ。これがレデレ氏の作った最初の車である。しかし速くて美しいこの車がレデレ氏の手で量産されることはなかった。(注4) その後、パリ郊外にカロジェ(カロッツェリア)をもつ、シャップ兄弟&ジェセラン氏と知り合う。FRPボディーを得意とする彼らの手により、4CVをベースにFRPのボディーをのせた美しいクーペが誕生する。これがアルピーヌ社最初の車A106である。4CVのフロアの上にFRPのボディーをかぶせたのち、パリのレデレ氏のガレージに運ばれ仕上げられた。これはA110の初期まで続く手法で、デュエップに大きな工場を作るまで続けられた。A106のクーペ(注5)はミレッミリアでクラス優勝するなど数々の勝利を収め、アルピーヌの名を知らしめた。こうしてアルピーヌ社はFRPのスポーツカーメーカーとして華々しい幕開けとなったのである。 56年にはA106のカブリオレを、57年にはA108カブリオレが発表される。この初期のA108はドゥフィーヌのドライブトレーンをA106のシャシーに付けたものである。60年に発表されたA108ベルリネッタは4CVのシャシーを使わずに、軽量なスチール製丸パイプで前後をつなぐ、A110と同じ形のシャシーが初めて使われた。ベルリネッタ意外にも4人乗りのGT4、ベルリネッタのボディーを取りさったカブリオレ、カブリオレにハードトップを付けたような形のスポーツクーペが作られた。 そしてルノー8を利用したA110が63年にデビューする。この956ccの小さな車が最終的には1800ccのエンジンを積みラリーで活躍したA110の最初である。美しく速く勝てるA110はフランス国内外の人たちに愛されアルピーヌ社を不動の地位におしあげた。そして77年7月にいたる長い間、A110は生産されつづけることになった。この年、取締役のレデレ氏が引退。1977年がアルピーヌ社にとって大きな転換の年となったのだ。 71年春、ジュネーブショーでA310が発表される。このウエッジシェイプの車は、デザインも足回りも全く新しいアルピーヌとなった。初期の頃は小さなトラブルが多く、併売していたA110のほうが売れていたほどであったが、改良に告ぐ改良で販売も競技でも活躍していくことになる。76年にPRVのV6を積みパワーアップしたA310は84年まで作られた。 80年、V6ターボが出る前にアルピーヌ社ではルノー5ターボを生産している。ルノーから運ばれたノーマル5のシャシーをアルピーヌ社で切り、フレームを付けてミドシップにして作った5ターボは、初期のA106のような生産方式といえるだろう。ラリーの規定に合わせて作れられた5ターボだが、ラリーで活躍はしたものの総合優勝までは手が届かなかった。だがかなりの数が販売され、営業としては成功した車であった。 85年アルピーヌの名のついた最後のシリーズ、形式D500シリーズが登場する。V6GTとV6ターボ。A310とくらべ、圧倒的に速く快適なこの車は競技を考えたものではなく、最高のGTを目指していた。空気抵抗の良いボディーと強化されたシャシー、ターボまで付けられたエンジンで250キロ以上のスピードまで出すことができたこのV6ターボは最高のGTになっていた。 その後はアルピーヌの名の付いた車は出してはいないが、アルピーヌ社では5ターボのように、スピダー、クリオV6とスポーツカー、そしてレーシングカーを少量生産する世界でも数少ない会社として生き続けているのだ。 注1:日野自動車がノックダウン生産した日野ルノーの本国版、日本ではタクシーに使われたほど丈夫であった。 注2:以前、紙のように軽いアルミ製のフェンダーをレデレ氏のガレージで見たことがある。車体の骨格とエンジン本体が変わっていなければOKであった。この当時ルノーの発売した4CVのコンペティション版1063を使ってレデレ氏はモンテカルロラリーやミレッミリアなどの大きなイベントでもクラス優勝している。 注3:戦前のフランスにはサイクルカー、その後には1000ccクラスのライトウエイトスポーツカーが数多く存在した。それらの車は小さな工房で作られ、レースやラリーで活躍したのだ。これらの車たちを見て育ったレデレ氏が同じ手法で車を作ろうと思ったのは自然というべきだろう。 注4:この車はアメリカの実業家が権利を買い、マーキスという名で生産された。 注5:フランスではクーペと呼ばず、このA106をコーチと呼んでいる。最終後期型にはドゥフィーヌのゴルディーニ・エンジンを積んだものもあった。 |